関所の歴史

気賀関所の創設は、当時の記録がないので明確ではありませんが、3つの説があります。

このうち慶長6年(1601)説が一般とされています。

関所は通行者の監視にあたるとともに、非常時(戦・一揆・暴動等)には、軍事的要衝(ようしょう)として古くから設けられていました。

最も古い関所は、3世紀ごろ播磨(はりま)と吉備(きび)の境に造られた和気(わけ)の関が大化の改新の詔(みことのり)によって大化2年(646)春、軍防令・関市令・衛禁令が定められてからといわれています。

このうち東海道鈴鹿(すずか)・東山道不破(ふわ)・北陸道逢坂(おうさか)が律令下の三関と称され軍事的性格の強い関所でした。

徳川氏によって諸大名の統制強化に即して江戸を中心とし、五街道(1.東海道2.中山道3.日光街道4.奥州街道5.甲州街道 ただし、甲州街道除いて北陸道、奥州街道除いて水戸街道とするものもある)及び脇往還(わきおうかん)に関所を設けました。

関所の目的は、『入鉄砲に出女(でおんな)』の監視が主要任務でした。一般往来者、囚人、手負、乱心、死骸や商荷物(あきないにもつ)などの監視も併せた政治性の強い警察的な役割も担っていました。