姫街道と気賀関所

姫街道の歴史は古く、縄文時代にまで遡ることができますが、いわゆる「姫街道」と現代でも称される街道は、天正15年(1587)6月に、本多作左衛門が要所に新宿を設けたことから始まりました。その後、道路も次第に整備され、人馬の継所として発展してゆきました。慶長6年(1601)には東海道宿駅の制が幕府によって定められ、この街道も「東海道本坂越」と名づけられました。

この街道は東海道の脇街道、脇往還で、見付から東海道と別れて市野に入り、気賀を通って三ケ日に出て、本坂峠を越えて嵩山(すせ)を通り、豊川を渡って御油(ごゆ)で最終的に東海道と合流する15里14町(約60キロメートル)の道程でした。街道の主な目的としては、浜名湖入口の渡しを避けることにありました。当時、浜名湖を渡ることは大変危険であったためです。

宝永4年(1707)10月4日における大地震では、壊滅的な打撃を受けた浜名湖南部を迂回するため、被害の少なかった姫街道はそれまで以上の賑わいとなりました。あまりの混雑ぶりに、宝永7年(1710)3月には幕府により大名の本坂越通行が禁止されましたが、交通量は減ることはありませんでした。その後も幕府から度々禁止令が出ることにより、街道はようやく落ち着きを取り戻しましたが、公家や武家の奥方、姫君女中衆はこの街道を使用し続けました。これにより本坂道は「姫様道」「姫街道」と呼ばれるようになりました。

気賀の関所は、この本坂道を監視するために慶長6年(1601)に徳川幕府によって設けられ、箱根、今切(新居)の関所とともに江戸に対する重要拠点となりました。慶長10年(1605)には気賀の町が大火に見舞われ、町並みはほとんど消失しましたが、関所は被災を免れました。このような状況から、関所では何度も茅葺の屋根を瓦葺に改装する願いを出しましたが、「権現様(家康)のとき茅葺であった」という理由で却下され続けました。その後実に100年以上経ってから瓦葺となり、幾つかの大災害をくぐり抜けて、規模と構造はほぼそのままに明治時代まで残りました。

明治2年(1869)の関所廃止令により、気賀の関所もその長い歴史の幕を閉じました。本番所は全国で最古の関所建物として昭和35年(1960)まではほぼ完全な形で現存していましたが、ほとんどが解体され、現在ではその一部が民家の屋根として残されているのみとなってしまいました。