気賀関所の歴史

関所創設 時代背景

【1598年】豊臣秀吉の死
【1600年】関ヶ原の戦い 石田軍(豊臣を守る) VS 徳川軍 の勢力争い、結果 徳川軍が勝利する
【1603年】江戸幕府の始まり

気賀関所 創設

気賀関所の創設は、当時の記録がないので明確ではありませんが、3つの説があります。
1.慶安2年気賀関所茅葺(かやぶき)御修復の書付による慶長から元和元年に設置された説
2.慶長17年(1612)気賀の白井家文書説
3.慶長6年(1601)斉藤家文書説
このうち【3.慶長6年(1601)説】が一般とされています。

関所 役割

関ヶ原の戦いで徳川軍が勝利し、江戸幕府がスタートするが、徳川家康は【他の勢力が強くなり、自分を攻めてくること】を最も恐れていました。
そこで、家康は他の勢力を強くしないために、
1.有力な大名の奥方や姫様を人質として江戸に住まわす
2.江戸に武器となる鉄砲を持ち込まない
といったた対策をとったのでした。
そして設けたのが 【関所】で、江戸時代には全国に53か所の関所がありました。
関所の役割は主に
1.人質としている女性が江戸から逃げないように見張る
2.鉄砲が江戸に入らないように見張る
の2つでした。俗にいう【入り鉄砲と出女】です。

気賀関所の場所

現在の建物は、1990年に復元された建物です。
江戸時代に実際に気賀関所があった場所は、姫街道沿いの四ツ角付近で、現在は本番所の西側屋根が残っています。
四ツ角付近は、西に井伊谷川・南に都田川・北は山となっており、関所の役割を果たすには適した場所だったと思われます。

関所の廃止

明治2年(1869年)関所廃止令が出され、気賀の関所も廃止されました。

トップへ